皆さま、こんばんは。
じめじめした日が続いていますね。いかがお過ごしでしょうか。
昨日は職場の湿度が90%に達していました・・・!
これでは頭の中にもカビが生えそうです・・・。
カビと言えば・・・
私が愛用している水原秋櫻子の編になる『俳句小歳時記』(大泉書店)には、「パン黴びて朝の欠食いさぎよし」という金子 潮の句が載っています。
私が暗記している数少ない句です(笑) ユーモラスでなかなかいい感じでしょう?
もちろん「黴」はちょうど今頃、初夏の季語です。
さて、先日 新刊本コーナーで谷川俊太郎さんの詩集を見つけました。
集英社文庫の『私の胸は小さすぎる』という書名です。
谷川さんはデビューから60年以上にわたり現代詩をリードしてきた方で、
その膨大な詩業から恋愛詩に絞って96篇を選び抜いたという本です。
そう言えば、谷川さんの詩は教科書やアンソロジーで読んだ程度で、まとまった作品群を読むのは今回が初めてでした。
こういう時は、期待と不安が半々なのですが、今回は期待通り・・・いや、期待以上でした。
今回の記事のタイトルは「詩」という詩の最終行です。
最終行に至るまでの過程を踏まえなければ、この言葉は生きてこないのですが、本書で最も印象深い箇所だったのでタイトルに掲げた次第です。
「どうして一緒にいるんだろう/愛なんててれくさい」(p203)と言いつつも、
「帽子をかぶらずにぼくをふりむいておくれ」(p75)と願ってしまう。
おそらく、どちらも本心からの想いでしょう。
そして、詩人はそれを言葉として定着させる。
数多の想いが重なり合って1冊の詩集がうまれます。
だから、ほんとうは想いの数だけ詩がある・・・。
詩を書かない人も、詩の卵を抱いていると言えるのかも知れません。
そんなことをぼんやり考えつつ・・・谷川さんの他の詩集も読んでみたいと思っています。