記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

世界が輝いていたころ

小学生のころの読書体験はいつも輝いていた。

教室のうしろに図書館の本が15冊ほど置かれていた。

月ごとに新しい本に替わるんだ。

私はそこでまどみちおさんの詩集を読んだ。

よくわからないところもあったけれど、あったかい気持ちになったことを覚えている。

そして、よくわからないことがたくさんあることに不思議と喜びのようなものを感じていた。

そんな一時もあった。

 

その小学校も廃校になるという。

市町村合併で消え去った町の名前をいただく母校もまた消えてゆく運命にあるのだ。

雑感

いま27歳。

人生100年とちょっと多めに見積もって、残り73年。

何でもできる気がするし、やってみたいことは何でもやらなくちゃと思う。

大学生の時のほうが、高校生の時のほうが、中学生の時のほうが・・・可能性はあったかもしれない。

でも、何かを”やろう”と思ったその時が、年齢に関係なく最も可能性に満ち溢れているのだと、そう思いたい。

明日の自分は今日の自分が作るのだから。

ゆきふると

皆さまこんにちは。

 

今日はセンター試験

本学も会場になっておりました。

 

朝、出勤するときは雨でしたが、

いまは雪が降っています。

私は午前勤務を終えて帰宅したところです。

 

ゆきふるといひしばかりの人しづか

 

室生犀星の句。私の好きな句のひとつです。

この句ではどんな人かという情報はまったくありません。

しかし、ぼんやりとその人の輪郭が浮かび上がってくるように感じるのは私だけでしょうか。

 

言わない、という余白がいきている句だと思います。

司書:レポート・科目終末試験・成績のこと〔司書2〕

みなさんこんにちは。

 

これから司書の通信課程を考えている方にちょっとした情報を・・・。

私も受講前にいろいろネットで情報収集をしたので、その恩返し(?)を。

単位取得について私が受講した近畿大学の例です。

 

1つの科目の単位を取得する基本的な流れは以下の通りです。

0.計画を立てる

1.テキストの熟読

2.レポートの提出&合格

3.科目終末試験の受験&合格

 

なお、レポートは一度提出してあれば、合格をいただいていなくても科目終末試験を受験することができます。(もちろん、単位取得にはレポートと科目終末試験の両方の合格が必要になります)

 

0.計画を立てる

生業を持たない大学生はいざ知らず、社会人は仕事や家事でなかなか忙しいものです。

だからこそ、勉強の見通しをつけることは大切でしょう。

とくに近大司書課程では、科目終末試験の受験申込期間などがきっちりと決まっているため、受験の機会を逸することなく効率的・戦略的に学習を進めていくことが必要です。(1年間で無事に修了するためにも・・・)

 

私は勉強を始める前にエクセルでさくっと全体のスケジュールを作りました。こうして可視化しておくと勉強の進捗具合が一目でわかりますね。

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全体の勉強スケジュール

 ※似た科目がいくつかあって入力するのが面倒だったので、VLOOKUPを使いましたが”該当なし”の欄はエラーが出たまま 笑・・・あくまでも自分用スケジュールなのであまり手の込んだことはする必要はないですよね。

 

1.テキストの熟読

司書の受講開始とともに大学からテキストが送付されます。履修登録したすべての科目が届いたのでずっしり・・・!

私は読みながら本質的なことが書いてある箇所に蛍光ペンでラインを引いていきました。

難易度やページ数にもよりますが、私の場合はだいたい2,3日で読み終えていたかなと思います。

 

2.レポートの提出&合格

テキストを読了したら、次はレポートの作成です。レポートは科目ごとにあらかじめ設題が決まっています。

テキスト以外にも参考文献が必要になるので入手して読みます。私は近隣の図書館で借りることが多かったですね。

レポートの作成のコツは、設題の意図をしっかりと汲み取ること。この一事に尽きるでしょう。

 

3.科目終末試験の受験&合格

レポートを提出すると、その科目の科目終末試験を申し込むことができます。

申込期間があらかじめ設定されているので、それまでにレポートの提出を済ませることが大事です(それがなかなか難しかったり・・・)

 

試験は試験会場に行って受験するものと、自宅のWeb受験の2パターンあります。

私はすべてWebで受験しました。

試験会場で受験する場合は、テキストとともに送付された問題集の中から出題されます。ですから、事前に自分で答えを作って暗記して試験に臨むことになるでしょう。

Webの場合は手元にテキスト等を置いて参照しながら解答できますが、どのような問題が出題されるのかは事前にはわかりません。(問題集の設問がそのまま出題されることはほぼないようです)

 

・・・いろいろ書きましたが、受講を開始したらぱっと見て自分にとっていちばん親しみやすいような科目から始められるのがよいでしょう。私は歴史が好きなので「図書・図書館史」からスタートしました。

 みなさまの健闘を祈念しております。

音楽と私と

みなさんこんばんは。

 

今日は壮大なタイトルですが、例の如くこじんまりとしたお話をしたいと思います笑

 

私はクラシック音楽が好きです。今夜もピアノ曲カッチーニアヴェ・マリアを聴いております。

この曲は、はじめて聴いたときに涙ぐんだものです。いまもこうして酒を飲みながら聴いているとじんわりとこみ上げるものがあります。大袈裟なようだけれども、人生の悲哀といったものをしみじみと感じるのであります。

美しい旋律、人生という時の流れ、残るものと散りゆくもの。

そういえばピアノ教室に通っていたわけでもないのに、なぜクラシックが好きなのだろう?と考えると、ひとつ思い当たることがあります。

 

私が中学生の頃、部活動とうまく折り合いがつかず、苦しんでいた時期がありました。

そのときに毎晩寝る前に聴いていたのが、フランツ・リスト作曲「愛の夢 第3番」やショパン作曲「ノクターンOp.9-2」だったのです。

私の精神の安住はこのわずか2曲の間だけだったと申しても過言ではありませんでした。

時に涙を流しつつ、時に励まされつつ、この2曲ばかりを聴いていました。

 

もともと幼少時にときおり、母が寝る前などにCDをかけていたものとおぼろげながら思い返すのですが、自ら聴きたいと熱望したのはこの時でした。

それ以後、私のなかにピアノの旋律が刻印されたような気がします。

 

私が好きな楽曲は、ピアノ経験者に言わせると「かなしい」曲が多いのだといいます。

しかし、”かなしい”ということは何も悪いことだけではないのです。

”かなしい”とは、悲しいとか哀しいとも書くし、あるいは愛しい、とも書くのであります。

また少々趣向が変わりますが、恋(こい)という言葉も、万葉の人々は孤悲(こひ)と書き表しています。ここに人生の悲哀があると思うのは私だけであろうか・・・。

そしてこの「悲哀」ということも、単に悲しむだけのことではないと私は逆説的ながらもしみじみと感ずるのである・・・。

立子へ-虚子より娘への言葉-

みなさんこんばんは。

俳句と短歌の間を行ったり来たりしている双海です 笑

9月ももう中旬なのですね。

 

いま、岩波文庫の『立子抄』を再読しています。

この本は、俳人 高浜虚子が次女である立子(たつこ)の主宰する俳句雑誌『玉藻』に寄せた文章を集めたものです。

昭和5年の創刊号から虚子が亡くなるまで実に30年もの間書き続けられました。

 

本書、学生時代に古本店にて購入、一読して深い感銘を受けた1冊です。

読み終えてから実家に送ってしまったので、以後手元に置いていなかったのですが・・・

先日、出張で早稲田界隈へ赴いたときに、通りの古本屋で購入しました。

200円也。コーヒーを飲むよりも滋養があって安上がり 笑

 

お店のご主人に「出張でこちらまで来たついでに立ち寄りました。学生時代もこうして古本を買ったことを思い出します」と告げると、「あぁそうでしたか。うれしいですね」と相好を崩されました。

最近は本がめっきり売れなくて同業者もどんどん店を畳んでいます、とも。

早稲田では、飯島書店・五十嵐書店がとくに好きでしたね。どちらのお店も今回お邪魔しました。ご主人、お元気そうでうれしく思います。

 

若者の読書離れ、ということが時々言われますが、私は大人(社会人)も同じようなものだろうと思います。

若者も社会人も読む人は読んでいる、読んでいない人は読んでいない。それだけだと思います。

これに限らず、いわゆる世代論という代物は疑ってかかるべし。これはちょっとした生活の知恵です。

これだけ娯楽が多様化している現代にあって、読書という-時として精神の緊張を伴う-営為の地位が相対的に低くなっていくことは仕方のないことかもしれません。

また、娯楽ではなく「修養」としての読書という考え方もありますね。

たとえばニーチェを読んでいなかったら「なんだお前、学生のくせにまだ読んでねぇのか!」と 笑  まあこれは戦前の旧制高校などの話で、現代では通用しないのでしょうね。北杜夫澁澤龍彦など多くの文筆家が書き残していることです。

 

さて、『立子抄』ですが、これを再読しているときに有島武郎の佳品『小さき者へ』や森鴎外の娘さん(小堀杏奴)が父を偲んで書いた『晩年の父』などを思い出しました。

『立子抄』や『小さき者へ』は、父が子を思うもの。

一方で、『晩年の父』は子が父を思うもの。

文学とは小説だけではない。これは大事なことだと思います。

 

本書は、『玉藻』の創刊号に虚子が寄せた「『玉藻』を出すについて」という次の文章から始まっています。

 「立子、お前に雑誌を出すことを勧めたのは全く突然であった。(中略)お前は父さんの傍で少しの間仕事を手伝っていた。自然俳句というものに親しむ機会がお前の他の兄弟姉妹よりも多かった。従ってお前のその方面の才能を少しばかり知ることが出来た。お前の俳句は筋の正しいものであることがわかった。これは父として偏っていうのではない。(後略)」

毎回1~2ページほどの短い文章ですが、娘を思う虚子という人間のあたたかさが伝わってくるように思います。

読みながら私も虚子に励まされたような気がします。

 もうね・・・なんというか胸が熱くなる感じ。親が自分の理解者であるという境遇はほんとうにありがたいことであるし、自分のいちばんの支えになるのだと思います。

最後のよりどころですね。それは、ひ弱な意味ではなくて、そこから力強く前へ前へ独力で進んでいく感じです。

 

黒猫ワイン:シュヴァルツカッツを飲みながら・・・。ではまた。