記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

『知音』2021年1月号から

みなさんこんにちは、双海です。

今日は知音俳句会の『知音』2021年1月号を散策してみたいと思います。

作者名は敬称略で失礼します。

 

露草の瑠璃を深めて通り雨(大野まりな

>夜明けとともに花開き、昼にはしぼんでしまう露草。

その短命な様が名前の由来という。 

 

確かこの辺りいつもの思草(松井秋尚)

予定なき日の朝食や小鳥来る(同上)

>高校生の頃に歳時記を買った。歳時記を繰っていると”これも季語なのか!”と驚くことがある。「小鳥」(秋)もそんな季語だった。

 

秋日傘たちどまりては風を聴き(牧田ひとみ)

 >秋日傘がいい。夏の日傘ではこの味わいは出ない。

 

何度でも告げたき言葉夏の星(田中優美子)

>夏の夜のドラマ。多くを語らない俳句の良いところ。

 

秋桜みんなが揺れるから揺れる(中野のはら)

>こういう何気ない句も好き。何気ない句も簡単にできるとは限らない。

 

運動会ポニーテールを高く結ひ(森山栄子)

 >いよいよ運動会が始まるぞ。よし、これで準備万端だ。リアルな情景が思い浮かぶ。運動会は徒競走が好きだった。

 

沈黙を楽しんでゐる良夜かな(山﨑茉莉花

>誰もいない部屋。沈黙や孤独は時に創作の泉である。詩人リルケ曰く、「孤独であることはいいことです。というのは、孤独は困難だからです。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。」

 

振り向けば風に色増す秋薊(栃尾智子)

>振り向くという動きが愉しい。薊はどうしてあんなに鋭い鋸歯を持つに至ったのだろう・・・。 

 

道を掃く木の実ころころころがして(井戸ちゃわん)

>愉快な句。いろいろな種類の木の実が転がっていく。 

 

歳時記になき花ばかり花野道(吉田しづ子)

>私の持っている歳時記のひとつに朝日新聞社の『草木花 歳時記』という春夏秋冬の全4巻がある。カラー写真が嬉しい。文庫本も出ているようだが、私の持っているのはずっしりと重い大判のもの。その最終巻(冬)に、「拾遺百花選」の頁があって、現在の歳時記には載っていないが将来的に季語になる可能性のある花を採録している。 

たとえば「紫草(むらさき)」が採録されている。確かに手元の歳時記には「紫草」は載っていない。これには少し驚いた。地味な花だからだろうか。

句例として本書の編者をしていた飴山實さんの句が載っている。

「紫草の花の白さを風のなか」

根から紫根染の色(古代日本における最も高貴な色だ)ができるのだが、花の色は白。このギャップもおもしろいね。

そういえば、染色家 志村ふくみさんの随筆で、桜から桜色を抽出するためには、花びらではなく桜の木の皮や枝から染めると書いてあった。ごつごつした皮や枝から美しい桜色を染めるとは驚きだ。花はすでに咲いてしまったのだから、そこから美しい色は出ないのだという。

 

ハープ弾く色なき風を織るやうに(立川六珈)

 >そうか、ハープの音色は”色なき風”であるのか。軽やかで素敵な捉え方だと思う。

『塔』2021年1月号から

こんにちは、双海です。

皆さま今年もよろしくお願いいたします。

 

さて、今日は塔短歌会の『塔』1月号から。

これ、初の試み。祝日で早起きして時間があるからね(笑)

作者名は敬称略で失礼します。

 

クレマチス返り咲きおり秋雨の朝〔あした〕むらさき色を深めて(天野和子)

クレマチスは鉄線花あるいは風車の花とも。夏の花なので”返り咲き”というわけだ。

秋雨によって色を深めるという捉え方も大いに共感できる。

 

やはらかくやさしくかろくあまやかな漢字の間〔あひ〕のひらがなの文字(佐近田榮懿子)

>手書きのひらがなの文字なのだろうか。ひらがなは漢字よりも書き手の感情のうつる文字だと思う。手書きの場合の話だが。ひらがな、好きです。

 

フルフルと鼻と口もと動かしてうさぎはいつもお腹すいてる(乙部真実)

大久野島(うさぎ島)の動画を見たことがあって、それを思い出した。

「お腹がすいている」ではなく「お腹すいてる」という表現が絶妙。あたかも自分自身がうさぎであるかのような。うさぎの愛嬌ある様子と作者のあたたかいまなざしが伝わってくる。

 

雨粒を数え間違えつづけてるそれははじめの一粒目から(鈴木晴香)

約束を宿題だって思うならもう会うのはやめようよ、今さら(同上)

>どこかで間違えている。それは過去として振り返った時にようやく気付くものなのかもしれない。雨粒は地面に落ちるとき、一粒であることを止める。

 

雨音がこころにしみる秋の宵果たせぬ約束わすれていいよと(岡山あずみ)

>秋思(しゅうし)という言葉がある。漢詩杜甫から出てきた言葉だが、今でも俳句の季語として用いられる。作者も秋の夜長に雨音にまかせて思索にふけっていたのだろう。共感を呼ぶ歌だと思う。

 

手に取れば薄紫の花の香と秋の日差しの温もり残る(金原千栄子)

>おだやかな午後だ。花はその色合いや香りといったプレゼントを時々私たちにくれる。こういう日はぶらりと気ままに散歩でもしてみたい。はやく疫病がおさまりますように。

 

灰色の路地に一輪だけ咲いて名前を知らぬ真っ白な花(吉原真)

>名前を知らぬ花に惹かれることがある。作者も歌に残しておこうと思ったのだろう。

そういえば、写真を撮るだけで花の名前を自動で教えてくれるスマホのアプリも出ている。尤も、名前を知らなくとも、花を愛することはできる。

 

パソコンを閉じて静寂 最初から一人だったけど一人になった(万仲智子)

>パソコンを閉じると改めて孤独を感じる。今までは気を紛らわせていただけだと。ひとりぼっちのステイホームを思い浮かべた。

言うまでもなくパーソナルコンピュータとは、個人が占有するコンピュータの謂いである。しかし、ふと思うのだ。PCを占有していたのではなく、占有されていたのかもしれないと。人格も時間も。

 

あの夏の限りもあらぬ透明をあなたの瞳にみつめていたが(沼波明美

わが影を満たすあなたの光ゆえわが内側に清らかに置く(同上)

ただ時が過ぎてゆく時穏やかなあなたの為に紅茶を注ぐ(同上)

>私がひそかに注目している歌人 沼波さん。ハマスホイの静謐な室内画のような透明感のある歌。12月号では「しみじみとあなたを待つよこの夕べ 帰り来るまで心を揺らして」「ようやくに心落ち着くこの夕べ 夫は厨に立ち茶碗を洗う」という歌に心惹かれた。

 

最近聴く曲たち

こんばんは、双海です。今年も残すところあと僅かですね。

この数日間にどのような有意なことができるか、よく考えて過ごしたいと思います。

 

さて、今日は最近よく聴く音楽をざっとまとめてみようと思います。

 

まず1曲目は「アルビノーニアダージョ

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↑長井浩美さんのパイプオルガン バージョンも素晴らしいです。

 

それから、「カッチーニアヴェ・マリア」。このブログでも過去に取り上げたかもしれません。この曲は学生時代から好きです。

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いろいろな方が編曲しています。それぞれに良さがあります。

↓オルガン バージョンも素敵です。後半の盛り上がりに胸が熱くなります。

 

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次は、バッハの「小フーガ ト短調 BWV578」。バッハはやはり偉大だと思います。何度聴いても飽きない。

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小フーガを挙げたからにはこちら「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」も。

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私は特にフーガが好きです。何と言っても神々しい。

 

私は長調よりも短調の曲の方が好きになる傾向があります。

たとえば、バッハのメヌエットト長調よりもト短調のほうが美しいと感じます。

 

ピアノとパイプオルガンの音色は学生時代から好きでしたが、最近はオルガンもいいなと思うようになってきました。

想いを継ぐ者になれ

こんばんは、双海です。

 

今日は雑感を。(酔っているので・・・笑)

 

若いのに俳句・短歌が好きなんて・・・と何度か軽蔑されたことが心に深く残っている。

たしかに詩歌は小説に比べて金にならない。

経済至上主義の観点からすれば旧世代の遺物だろう。

しかし、文芸にかかわらず、文化というものは想いを継ぐ者がなければ途絶えてしまう。

そして、文芸の継承は意外にも市井の名もなき人々によって支えられているのだ。

私にはそれがよく分かる。

軽蔑されてもやめなかったから今の自分があるのだと思う。

言葉を愛することは、人を愛する近道なのかもしれない・・・などと最近頓に思う。

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』

皆さま、こんばんは。双海です。

 

コロナで家にいることが増えました。

今月は家の中にある不要なモノをどんどん手放しています(売り払っています)。

 

今回のタイトルはあるミニマリストの方の著書から。

先日、図書館で借りて読みました。ここで本を買ったらまたモノが増えるだけなので注意(笑)

 

私は学生時代からときどき大規模な断捨離を行ってきました。

モノが溢れかえっている部屋はなんだか落ち着かなくて、居心地が悪いのです。

視覚的にも、くたびれます。

それから、モノを直接床に置くのも気持ちが悪いので絶対にしません。

床にモノを置くのは本当にやめた方がいいと思います。そういう粗雑な精神からは有為な仕事・生活は生まれないのでは?と思います(あくまでも私の考えですが・・・)

 

このような整理整頓好きはおそらく祖母から教わったのでしょう。

保育園の頃だったかな、母の実家に泊まりに行って帰ってきたら家のおもちゃがすべて処分されているということがありました。

おそらく片付けずに出かけて、ごちゃごちゃしていたのでしょう。(または、この手のおもちゃはもうあの子には必要ないと判断したのかもしれません)

それから私は片づけをするようになりました。片づけをすると祖母に褒めてもらえたことも良かったのだと思います。祖母の部屋はいつも清浄な空間です。

 

先ほど、本を100冊ほど段ボールに詰めました。明日、集荷に来ていただきます。今回も駿河屋さんにお世話になります。静岡に本社があって贔屓にしています(笑)

 

収納スペースを増やそうと思って、跳ね上げ式の収納ベッドを使っていますが、もう収納すべきモノもほとんどありません(笑)

 

私の場合、やはり本が増えがちなので公共図書館と勤務先の図書館をうまく使いたいと思います。

身銭を切って手にした本からしか学びえないこともある、という意見はよく分かります。私もそれは経験してきたつもりです。その点では、いま、私の手元に残っている本も終生ともにする本です。いわば”私の古典”。

しかし、まずは可能であれば買わずに借りて読んでみて、、、という方向で行きたいと思います。

本からのインプットは学生時代の2千冊でとりあえず大きな区切りをつけて、これからはアウトプットに軸足を移していきたいな。

”やるべきこと”よりも”やらなくていいこと”を決める

皆さまこんばんは、双海です。

 

11月になりました。霜月です。

だんだんと寒さも本格的になってきましたね。

 

人生の時間(寿命)は有限。今日1日も有限。当たり前だけど。

やるべきことを探すこと以上に、やらなくていいことを明確にしておく方がよいのかもしれませんね。

 

たとえば、私はテレビを持っていないので、テレビを見るという行為は”やらなくていいこと”に含まれます。

テレビという情報媒体は、視聴する時間の割には得られるものが少ない気がします。とくに漫然とだらだら見ている時。生産性ゼロ。

ニュースはネットで自分が必要なものをチェックすればOKでしょう。私にとって芸能人の不倫話やスポーツの動向などは不要な情報です。そういうものに脳のリソースを割きたくないと思います。

 

それから、SNSの類。どんどん新しい種類のものが出てきますね。

自分なりの明確な目的があって使用するのならまだしも、暇つぶしに・なんとなく・周りの人が使っているから等の理由で使うのは危険かも。私は自分の目的に合致しないものは一切使っていません。

SNSは無料で使えるけれど、自分がSNSを使っているときに流れる時間には、お金では換算不能な大きな価値があります。

 

それから、SNSは基本的に自分の良い面しか載せないので、そこに出てくる人・モノはみんな輝いています。人間は比較する動物ですから、SNSを見て自分と他者を絶えず比較することになります。想像しただけで疲れそうです。自己肯定感も下がりそう。他者の評価に自分の幸福を任せてはダメです。自分の幸福は自分の心が決めるのだと思います。

 

やらなくていいことを明らかにすると、自分が最も注力すべき事柄が自ずと見えてきますね。

晴れときどきテレビ

皆さまこんにちは。

朝晩が急に冷えるようになりましたね。

秋は足早にやってきます。

 

学生時代に一人暮らしを始めてから、ずっとテレビを持たない生活をしています。

そんな私がテレビの話題を。

 

私がテレビを見るのは、帰省したときと出張でホテルに泊まったときくらい。

以前、帰省した時に父が紹介してくれた番組があります。

それは、ピアノの置いてある駅に定点カメラを設置してどんな人が弾くのかを見守る・・・という番組。

いわゆる「ストピ」(ストリートピアノ)です。

YouTubeにも個人で動画をアップしている人がたくさんいますね。

浜松駅で弾いてみた、とか。

 

さて、これがなかなか味のある番組なのです。

演奏会ではないので、もちろんプログラムはありません。

ふらっと来て、弾いて、一言インタビューを受けて、颯爽と去ってゆく・・・。

過剰な演出がなく、淡々としていてよいですね。

 

電車の待ち時間があったので弾いてみたという会社員。

これからピアノの発表会があるという女学生。

むかし奥さんが弾いていた曲のメロディーだけ弾いてみるおじいさん。

いろいろな人生がある。

 

改めて、音楽とは時間の芸術なのだと思います。

弾いたそばから音は消えるのですから。

 

バイオリンやフルートでは任意に音を長く伸ばすことができます。

弓を引く圧力や指の動き、強弱によって音をさまざまに変化させることも。

 

しかし、ピアノはなかなかそうはいなかい。

1音「ド」を弾くと、その音は減衰して消えてゆくのみ。

あとからクレッシェンドをしたり、ビブラートをかけたりすることはできない。

これは、自分の指が直にピアノ線に触れているわけではなく、鍵盤という機構によってハンマーが音を叩き出していることからなのでしょうね。

1音1音が勝負で、巻き戻しができないんだなぁ。

 

なんだか私たちの人生に似ている・・・のかもね。