記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

筆写に思う

皆さま、こんばんは。

先日、公共図書館へ司書関連の参考文献を借りに行ったのですが、

そのときに本居宣長に関する本が目に留まったので併せて借りました。

吉田悦之著『日本人のこころの言葉 本居宣長』(創元社・2015年)という本です。

本稿は、本書を読みながらつらつら考えたことをまとめてみたものです。

 

※余談ですが・・・私は創元社と聞くと独特な装幀の創元選書を思い浮かべます。

古書店で見ると一目でわかりますね。小林秀雄の訳になる『ランボオ詩集』や柳田國男『雪国の春』など、良質のラインナップだったようです。いい時代だなぁ・・・。

 

さて、宣長が(あるいは当時の人々が)、とにかく頻りに筆写をすることに改めて驚嘆せざるを得ません。

 

宣長も契沖の『古今余材抄』(『古今集』の注釈)や『勢語臆断』(『伊勢物語』の注釈)などを次々に筆写しています。

 

彼らは、1冊の書物を始めから終わりまで、文字通り徹頭徹尾書き写すのです。

そして、これが学問の出発点でした。

 

「当時の印刷技術を考えたら書き写すのが当然ではないか」と思う方もおられるかもしれませんが・・・

いや、しかし、筆写には現代人が忘れ去った偉大な効能があると思うのです。

 

現代の学問・研究、たとえば歴史学でAという人物を扱う場合、その著書を筆写するなどということはまずあり得ないと言ってよいでしょう。

誰もそのようなことは考えないはずです。

 

そんなことをする時間があったら、一次史料を調査したり、先行研究(論文)を読んだり・・・といったことに時間を割くでしょう。

論文を書くことができなければ、その研究は無価値である、ということです。

さらに言えば、その研究成果が自身の収入に結びついていかなければなりません。

(昔の人は1冊の書物を出版するために、本業を別に持ちながら学問に没頭しました。

その善し悪しはさておき、現在の学者とは大きな違いがありますね)

 

では、筆写の効能とは何か。

いろいろと考えられると思いますが・・・

筆写とは身体的な営為である、ということはひとつ注目されてよいと思います。

頭で考えるよりも、まず、手を動かす。

 

そういえば、私は学生時代に読書ノートを作っていました。

さすがに1冊の本の全ページを書き写すことはありませんでしたが、

気になった箇所などはキャンパスノートに10ページほど筆写することもありました。

 

このような営みは地味ですが、著者の筆致に自分の思考が添うような心地よさがあります。語彙、文体、構成・・・いろいろなことを自然と学んだのだと思います。

 

学問の第一歩が「筆写」であった時代が羨ましい、そう思います。

 

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私は写本を眺めるのが好きです。

書いた文字そのものが美である。

これは不思議なことかもしれません。

書道というものが横文字語圏にあるのか私は寡聞にして存じませんが、

筆文字(とりわけ連綿のかな文字)の美しさはちょっと言葉にはできないものがありますね。