みなさんこんばんは。
今日は壮大なタイトルですが、例の如くこじんまりとしたお話をしたいと思います笑
私はクラシック音楽が好きです。今夜もピアノ曲、カッチーニのアヴェ・マリアを聴いております。
この曲は、はじめて聴いたときに涙ぐんだものです。いまもこうして酒を飲みながら聴いているとじんわりとこみ上げるものがあります。大袈裟なようだけれども、人生の悲哀といったものをしみじみと感じるのであります。
美しい旋律、人生という時の流れ、残るものと散りゆくもの。
そういえばピアノ教室に通っていたわけでもないのに、なぜクラシックが好きなのだろう?と考えると、ひとつ思い当たることがあります。
私が中学生の頃、部活動とうまく折り合いがつかず、苦しんでいた時期がありました。
そのときに毎晩寝る前に聴いていたのが、フランツ・リスト作曲「愛の夢 第3番」やショパン作曲「ノクターンOp.9-2」だったのです。
私の精神の安住はこのわずか2曲の間だけだったと申しても過言ではありませんでした。
時に涙を流しつつ、時に励まされつつ、この2曲ばかりを聴いていました。
もともと幼少時にときおり、母が寝る前などにCDをかけていたものとおぼろげながら思い返すのですが、自ら聴きたいと熱望したのはこの時でした。
それ以後、私のなかにピアノの旋律が刻印されたような気がします。
私が好きな楽曲は、ピアノ経験者に言わせると「かなしい」曲が多いのだといいます。
しかし、”かなしい”ということは何も悪いことだけではないのです。
”かなしい”とは、悲しいとか哀しいとも書くし、あるいは愛しい、とも書くのであります。
また少々趣向が変わりますが、恋(こい)という言葉も、万葉の人々は孤悲(こひ)と書き表しています。ここに人生の悲哀があると思うのは私だけであろうか・・・。
そしてこの「悲哀」ということも、単に悲しむだけのことではないと私は逆説的ながらもしみじみと感ずるのである・・・。