記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

『塔』2021年5月号から①「桜貝拾ひゐるうち寂しくなりぬ」

みなさまこんにちは。

6月。そういえば今年も折り返し地点なのですね。

だんだんと暑くなってきました。

例年のことながら湿度が鬱陶しいですね・・・。

じめじめしているところにマスク、これかなりしんどいです。

今回の記事は5月号ですが、本日『塔』の6月号が届きました。

 

ながいこと触っていない草の葉のごくやわらかき産毛をおもう(なみの亜子)

>小さい頃に遊んだ時の記憶。ふわふわと白い産毛が生えている。草にも産毛があると思うと、なんだか可愛くなってくるのは私だけだろうか。

 

冬凪の浜辺に出て来て桜貝拾ひゐるうち寂しくなりぬ(上田善朗)

>にぎやかな夏の浜辺とはまったく異なる表情。荒寥とした冬の浜辺である。ひっそりとした静けさ、波の音がことさら大きく聞こえるようだ。

 

無意識に濾過して最後に残りたるたったひとつを想い出と呼ぶ(岡本幸緒)

>概念を定義する歌もおもしろい。忘却とは記憶の濾過作用であるのだ。面白い見立てだし、納得させられる。

 

その人に送った切手は残らない、でも遠い空に咲く紅い梅(小川和恵)

>切手は貼り付けて送るのだから手元に残るはずはない。当たり前のことを言っているのだが、後半の七七と繋げてみると、味わい深い余韻が生まれる。取り合わせの妙である。

 

水は光、光は水と思ふまで光りさざめく冬のみづうみ(小澤婦貴子)

>落ち着いた詩的なたたずまいを感じる歌。湖、みずうみ、みづうみ・・・表記の違いが読者にそれぞれ異なる情感を想起させる。この歌では“みづうみ”という言葉が詩語として成功している。

 

冬眠に失敗したんじゃないかしらあの子ぜんぜん起きてこないわ(乙部真実)

>軽やかな口語が成功している。ユーモアがあっておもしろい歌。この歌の前には次の一首が置かれている。「ふわふわと光の中を漂ってただ漂って春の眠りは」

 

意味がないようでおおよそ意味がある万葉集の枕詞は(加藤武朗)

>高校の古典の授業では、枕詞には意味がないから丸暗記せよと教わった。その後、大学生になって自分でいろいろと気の向くままに本を読んでいたら、枕詞には意味があるという論説に出くわした。嬉しかった。この歌を読んでそんなことを思い出した。

 

思い出を食べて暮らしている人に短い手紙をしたためました(北山順子)

>コロナ禍で外出がままならない。どこかで遊ぶわけにもいかない。思い出は増えない。いままでに蓄えた思い出を少しずつ食べながら、細々と暮らしている・・・そんな情景を思い浮かべた。手紙を書いて送るという一コマに作者のささやかな心遣いを感じる。また、今号の同じ作者の歌に「母に似た部分もあって形見より大事なものと思って生きる」という素敵な作品があったのでここに付記しておく。

 

つめたくて白くて水っぽいものをゆきと名づけた人のいたころ(三谷弘子)

>おもしろい着眼点。なかなか真似できないのでは。

 

指折りて作句する人そばに居りわたしの短歌にも季語が入り来(林田幸子)

>短歌と俳句が趣味だと言うと、短歌には季語が要りますか?と訊ねられることがある。一般的に俳句には要るのだが、短歌には要らない。しかし、私は歌人の机上にも歳時記があったほうがよいと思っている。

 

まるごとの白菜を買う今週のどこかできっとする鍋のため(上澄 眠)

>鍋の白菜が好き。おいしいよね。味がしみてとろとろになった白菜もまたいい。コロナで帰省できなかったため、大晦日から元旦にかけてひとりですきやきを作って食べた。

 

ふり向けば会いたき父母が居るような夕べとなれり波音静か(大城和子)

>こういう静謐で詩的な歌に心惹かれる。

 

肩出して寒くないのか大根よ住宅街に残った畑で(松浦わか子)

>俳句のようなおかしみの歌かと思いきや、後半の七七には寂寥感が漂う。このバランスが巧みだと思う。ポツンと残った畑だからこそ寒さがより一層強く感じられるのだ。

 

立ち読みせる吾の後ろを通る人のシトラスの香に顔見たくなり(伊東 文)

>ああ、こういうシチュエーションあるなぁ。その一瞬をきれいに言葉として定着させるとこうなるのだ。