記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

『源氏物語』を愉しんでいます

皆さまこんばんは。

先日から『源氏物語』の世界を堪能しています。

 

私と『源氏物語』の出会いは、多くの皆さんと同じだと思います。高校の古典の授業でした。そして高校の文化祭で『源氏物語』を取り上げることになって、私は和歌の担当になりました。図書館に籠って全集を見ながらルーズリーフに筆写したのが思い出されます。全795首。あの頃は何をしても疲れることがなかった…気がする。『源氏物語』が愛読書になるなんて、当時はまったく予想していなかったな。紫式部のすごいところの一つは、登場人物の程度にあわせて、上手い歌・下手な歌をきちんと詠み分けているところです。紫式部が優れた歌詠みであったことがわかります。藤原俊成の六百番歌合の評言に「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と記述があるのも納得です。

 

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『「源氏物語」が読みたくなる本』(グラフ社)で著者の山本淳子さんが「光源氏と若紫を、ロリータ(幼女性愛)のように言うのは正しくない。光源氏はただ娘のような若紫に癒され、若紫は兄のように光源氏を慕っていたのだ」と書いておられました。私も同感です。光源氏ロリコンだという短絡的な説は斥けたい。ただ、若紫を引き取った4年後、天性の美質がいよいよ磨き上げられて女性として見事に美しく成長した若紫の処女を奪ってしまうのですが…。夢見がちな少女の日々はここで終わってしまう…。

なお、新枕を交わすシーンは現代の通俗小説とはやや異なり、原文には詳細な記述はありません。「男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり」(男君は早くお起きになって、女君は一向にお起きにならない朝がある)と記すのみです。この一文で読者は一切を察するのですね。こういう場面で紫式部は決して筆を汚しません。若紫(結婚してからは通称 紫の上)は、兄のように慕っていた光源氏の突然の行動にショックを受けて寝込んでいるのです。無理からぬことです。

 

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好きな場面は?と聞かれたらいろいろあるけれど…たとえば源氏が須磨へ下る際に紫の上が詠んだ歌が印象深い。「惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしかな」(惜しくないこの命にかえても、今さしせまったお別れを、しばらく引き留めとうございます)夫の身を案じるいじらしい若妻。しかし、紫の上に感情移入するとやるせない気持ちになります。なぜかと言えば、この後光源氏は明石で他の女性と関係を持つことになるからです。そしてその女性との間に子どもまでもうけてしまう。その事実を知った子どものいない紫の上がどのような思いをしたか…。なんというか…幼女の時から育ててきたのだから、紫の上だけは悲しませてはいけないと私は思うのですが…。

 

生涯で光源氏と最も長く時間をともにした女性は紫の上ですが、彼女が幸福であったかどうかはまた別の問題です。円満と思われた夫婦生活でしたが、女三の宮の降嫁など思いもしない出来事があって、次第に夫婦の間に隙間風が吹きます。紫の上の気持ちがだんだんと離れていくのですね。最終的に紫の上は現世をはかなんで出家の希望を光源氏に伝えていたものの、叶えてもらうことはできませんでした。やはり光源氏は紫の上を手放したくなかったのです。「女ばかり身をもてなすさまも所狭うあはれなるべきものはなし」(女ほど身の処し方も窮屈で、かわいそうなものはありません)という紫の上の述懐(夕霧の巻)はまことに実感がこもっていると思います。そしてこれは夕霧の恋愛事件の当事者である落葉宮に寄せられた同情のみならず、当時の女性の生きづらさを端的にあらわしたものとして私の記憶に強く残っています。

 

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豊田芳子さんの書かれた『哀しみの女君たち―「源氏物語」のヒロイン・二十四抄―』 (短歌草原叢書)では、物語に登場する女君たち一人ひとりについて論じられています。卒論のテーマに源氏物語を選び、爾来半世紀に亘って魅了されてきたという著者の文章からは源氏物語への深い愛を感じます。こういう本を読むと物語にはいろいろな解釈があるということが実感され、読みの幅が広がります。たとえば、花散里について「いい子ぶっていて嫌い」・「容姿に自信がないから落としどころをちゃんと心得て振舞っている計算高いところが可愛くない」という意見が紹介されていました。なかなか手厳しい意見です。でも、私は美人ではないかもしれませんが、気立てが良くて控えめでいつもやさしい花散里が好きです。癒されます。ひとたび作者の手を離れて作品として世に出れば、それをどのように受け取るのかはひとえに読者の自由なのです。

 

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大塚ひかり『カラダで感じる源氏物語』(ちくま文庫)もなかなか面白い一冊でした。実に大塚さんらしいタイトルです。思わず読むのをためらってしまいそうですが、なかなか示唆に富む指摘が多い。たとえば、著者曰く『源氏物語』は密室のエロスだといいます。密閉された空間での秘密の情事をカギ穴から覗き見るようだと。たしかに『古事記』や『万葉集』は明るくて開放的なエロスだから『源氏物語』とはタイプが異なると思います。

また、「女を見る」ことがその女と寝ることとほぼ同義であった平安時代に、身体描写のある女君とない人が分かれるといいます。身体描写の少なさは、そのままその女君への光源氏の性的興味の薄さを意味すると。私の好きな女君のひとりである朝顔の宮は、何度も言い寄る光源氏に最後まで肌を許さなかった女君でした。「長年、多くの女性たちを見聞きしてきたが、思慮深く、それでいて魅力に溢れた点では、あの人と比較できる人さえいなかった」という絶賛があるにもかかわらず、やはり身体描写はありません。

 

それから、明石の君の産んだ姫君を引き取った紫の上が、自身は子どもを産んでいないので乳は出ないのだが、姫の小さな口に乳房を含ませるシーン。私もここにそこはかとなく漂うエロスを感じていましたが、著者も見逃していませんでした。露骨な描写を避ける『源氏物語』にあってはけっこう唐突な気がするのです。特に、情事のシーンもぼかされて描かれる紫の上がこうも簡単に授乳のふりをするところを描写されるとは…。

 

私の好きな澁澤龍彦の一節が引用されていました。「いちばん客体に近い存在が、いちばんエロティックなのだ」…たとえば、お産の前後に物の怪に苦しめられて寝込む葵の上に源氏はある種の「美」を見出してしまう。つまり眼前に横たわる病気の体(限りなくなく客体に近い)を”そういう目”で見てしまっているのです。残酷でありながらも、官能的な一コマだと思われます。