記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

『塔』2021年4月号から②「ただそこに冬のひかりのある窓辺」

皆さまこんばんは。

今日は雨風が強い1日でした。

 

前回に引き続き、4月号です。

私の文章は、いわゆる「評」ではなくて、ただの感想なのだけれど、人様の歌を読んで感じたことをその歌とともにメモしておきたいという思いからここに書き記しています。

 

好きな鳥きらひな鳥ができてしまふ餌〔ゑ〕に来る小鳥見てゐるうちに(髙野 岬)

>一読して、あぁ、わかる気がするなぁと思った。毎日やってくる小鳥たちを見ているうちに、だんだんと個体を識別できるようになるのかもしれない。あるいはそこまで厳密にいかなくとも、この子はあっちの子よりもいいなぁと思う瞬間がきっとあるのだ。コロナ禍で気軽に出歩くことができない私たちに比べて、小鳥たちは自由そのもの。

  

ルリシジミの夢の彩り想ふなり外灯ひとつ消してそののち(大地たかこ)

>明るい青藍色のルリシジミとそっと外灯を消す作者の姿。心地よい静けさがこの歌をやさしく包み込んでいるようだ。それは心地よい夜のはじまりである。ルリシジミと聞いて、思い出したことがある。ポーラ美術館に行ったときにすぐそばに遊歩道があって、そこで1時間ほどバードウォッチングをしたことがあった。オオルリルリビタキが棲息しているのである。いずれも色鮮やかで美しい鳥である。

 

うす紅のご飯茶碗を買った日の夕暮れは美しそれだけのこと(黒沢 梓)

>「それだけのこと」という言い切りに込められた作者の思い。私たち読者はどう受け止めるだろうか、あるいはどう感応するだろうか。ご飯茶碗も夕暮れも、どちらも平凡な日常の中にあるものだ。それがうす紅色をしていたり、美しかったり・・・たったそれだけのことなのに、なんだか心が満ちているような気持ちになる。これがしあわせって言うのかしら、などと思いつつ今日という日を終えてゆくのだ。

 

仮名文字の流れの如く日々過ぎて畑の草花ほろほろと散る(宮路廣子)

私見によると、日本が生んだ美しい文化のひとつが、連綿体のかな文字である。「ほろほろと散る」のところから散らし書きを想像するのも楽しい。文字とは、単に情報を伝達するだけの道具ではない。美しい文字とそうではない文字がある。活字慣れしている私たちは意識的に想像する必要があるが、たとえば古今和歌集を読むときに、活字では文字そのものの美しさは感じることができない。思うに、筆文字で読んでいた人々は私たちよりも多くのものを得ていたのだろう。文字から想起される書き手の人柄や教養の程度、こころの様子など。

 

蛞蝓は何食べ生きるか今日もまたトイレの壁をそっと上れり(平田優子)

>トイレに食べ物はあるのだろうか、と心配してしまった。おそらく作者は迷惑しているのだが、どことなくユーモラスな感じがするのはナメクジだからだろうか。ナメクジは野菜や果物を食べるので農家や園芸家には嫌われているが、私は幼少期に庭で見つけた遊び相手のひとつだった。花の鉢植えを持ち上げて、底面をのぞくとナメクジがくっついている。そこにいるだけで面白い存在。折悪しく祖母の目に留まると、塩を振りかけられてしまうのだが・・・。なお、ナメクジは「なめくじり」等とも言い、俳句では夏の季語となっている。「なめくぢがなめくぢに触れ凹みをり」(栗原利代子)こちらの句もありのままの情景を詠んだ句なのだが、やはりちょっと楽しい気がする。

 

ただそこに冬のひかりのある窓辺 〈孤独〉と書いて〈わたし〉と読みます(赤嶺こころ)

>ひかりは季節によって表情を変える。また、見る人によってもその表情を変える。この歌に関して贅言は不要だろう。作者の心をしずかに思うのみである。

 

感謝しかないと時々言うひとの否定のようなことば悲しも(松本志李)

>こういう時の否定は、強い肯定を表わすものなのだが、しかし否定の響きが耳に残ることは確かだ。私も気をつけようと思った。