みなさまご無沙汰しております。
気が付いたらもう5月もおしまいですね。
遅ればせながら4月号についてメモしておこうと思います。
本棚の本の背表紙わたくしの生きるちからを充たすその文字(苅谷君代)
>こういう本がある人はしあわせだ。たしか、明治大学の齋藤孝先生が“マイ古典を持とう!”と提案されていたように記憶している。
生涯を共にする本があれば心強いことこの上ない。この作者も、本から「生きるちから」をもらっている。部屋に並んでいる本の背表紙がエールを送ってくれるのだ。
私は高校生の頃に買った『ゲーテ格言集』(新潮文庫)がマイ古典のひとつだ。
「大きな思想と清い心、それこそ、われわれが神に請い求めるべきものである。」
「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである。」等々。いずれも含蓄のある深い言葉であり、折に触れて読み返しては「生きるちから」を得ている。
やめることを怖れる自分を変えられず働くことを続けてその先(川本千栄)
>私たち人間には現状維持バイアスという傾向があるという。利益よりも損失の方をより大きく感じてしまい、変化を避けようとするのだ。それが、未経験な事柄であったらなおさら現状維持を選ぶ可能性が高いだろう。
この作者も「やめる」という変化を怖れている。一体「その先」には何が待ち受けているのだろう。私も時折“その先”が気になりながら、今日も何一つ変わることなく働いている。
ひとつひとつ思い出しつつその歌を指にたどって丁寧に読む(藤田千鶴)
>気が向くと以前作った歌を読み返すときがある。どこに行ったとか誰と会ったとか何を食べたとか、いろいろなことが思い出される。歌という器の中には、過ぎ去った時間が揺曳している。
世の中が明るくなって四六時中監視カメラがあなたを見てる(村松建彦)
>監視カメラという便利だが、ちょっと不気味な存在。明るくなって良かったという単純な話ではない。たとえば、夜道もLEDライトで照らされてだいぶ明るくなった。
しかし、ここで言う“明るくなった”ということは、夜が電灯によって照らされたこと以上の意味も持っている気がする。私たちが普段なにげなく使っているSNSも監視カメラの役割をもっている、とも考えられる。不気味な明るさである。ふと、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生―監視と処罰』を思い出した。私たちが暮らしている現代社会そのものが、1つの巨大なパノプティコンなのかもしれない。
見上げれば星のない空 たわみたる電線沿いに道は続いて(宇梶晶子)
>星のない夜空。私はもう慣れてしまったが、上京したての頃には違和感があった。いろいろな建物やお店から発せられる光で夜が夜ではないのだ。「光害」という言葉を知ったのもちょうどその頃だった。たまに実家に帰って空を見上げると広いなぁ!と思う。建物などで視界が遮られていないからだ。プラネタリウムほどではないにせよ、たしかに星が見える。そこにはちゃんと夜の闇があり、ある種の安心感をもたらしている。
ストーブの燃ゆる音のみ満ちている真冬日たいらな感情曲線(石井夢津子)
>薪ストーブを想像した。パチパチと木の爆(は)ぜる音がする。その音が明瞭に聞こえるほど、部屋のなかは静まり返っている。作者の心もおだやかそのもの。
以前、火をつけるとパチパチと音がするアロマキャンドルをいただいたことがあった。ラベンダーの心地よい香りがするのだが、その香り以上に音がよかった。なんとなく心が鎮まるのである。
火があれば暖をとったり、食べ物を調理したりすることができる。人間にとって安心できるのだ。そういう太古の原始時代のDNAが無意識下で作用しているのかもしれない。
人生を意味づけていくことにやや疲れてきたり肌寒き朝(新谷休呆)
>生きる意味とは何か?―――誰しも一度は考えたことのある問いだろう。おそらくこの作者も幾度となく考えを巡らせたのだ。しかし、納得のいく答えが見つからない・・・。意味のない人生、そんなことを思うと、朝の空気がいっそう肌寒く感じられるようだ。
この歌を読んでいたらこんなことが思い浮かんだ。やや突飛かもしれないが、原始人の「生きる、産む、育てる」というシンプルな生の目的に比べたら、現代人の生の目的は多すぎるのではないか。“価値観の多様化”と表現すれば聞こえは良いのかもしれないが、しかし、実際に悩むことも多いのである。
「生きる、産む、育てる」以外の行為にも、私たちは常にさまざまな新しい価値を見出していく。思うに選択肢の多寡と幸福感とはそれほど相関しないのかもしれない。
明日なんて来るか来ないかわからないだけど来るんだ今から明日(山梨寿子)
>文化人類学者 マーガレット・ミード氏に「未来とは、今である」という言葉がある。この歌を見て思い出した。私たちは過去を生きなおすこともできないし、未来を先取りして生きることもできない。できることは、ただ“今”を生きることだけ。
今、ここに集中する―――こういう風にシンプルに捉えるならば、私たちの毎日は少し気持ちのよいものになる気がする。