まあいいや、だいたいで―――最近いつもそう思っている。
7月下旬に体調不良になってから、仕事への向き合い方を意識的に変えてきた。
自分の身体を壊してまで仕事をすることはない。
身体が壊れてしまっても、だれも褒めてはくれないのだから(笑)
自己犠牲ばかりの働き方からは脱却しよう。
壊した本人がつらい思いをするだけだ。バカみたいな話だ。
鬱にでもなったら5年、10年を棒に振ることになる。
鬱の希死念慮って凄まじいらしいね。
がんばりすぎなくて、いい。
それで評価されなくなっても、仕方がないことだ。
仕事は学生や教員のためにやっているのであって、評価のためではない。
私自身は、他者からの評価のために生きているわけではないのだから。
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生きる意味について考える時間をもった。学生時代にはよく考えたのだが。
生きる意味はない。動物に生きる意味がないことと同じように、人間にも生きる意味などないのだ。
生きる意味、などと余計なことを考えるのは、人間が言葉で世界を認識しているからだ。
自分の意識とは無関係に、気がついたら生まれていた。そして、自我が芽生えることで自分と外界がわかれて、あらゆる苦楽が押し寄せて来る。それが人生。
しかし、生きる意味がなく、ただ単に生まれてやがて死んでいく。そう考えることで、ずいぶん気持ちが楽になる。
なんだ人生ってそれだけのことじゃないか。
ああ、人生は死ぬまでの暇つぶしなのだ。だったら楽しく生きた方がいい。
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「うむ」は能動、「うまれる」は受動。やっぱり、気がついたら生まれていた、ということなんだなぁ。
そんなことを考えていたら、吉野弘さんの詩「I was born」に出会った。
「I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」