記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

まあいいや、だいたいで

まあいいや、だいたいで―――最近いつもそう思っている。

 

7月下旬に体調不良になってから、仕事への向き合い方を意識的に変えてきた。

 

自分の身体を壊してまで仕事をすることはない。

身体が壊れてしまっても、だれも褒めてはくれないのだから(笑) 

自己犠牲ばかりの働き方からは脱却しよう。

 

壊した本人がつらい思いをするだけだ。バカみたいな話だ。

鬱にでもなったら5年、10年を棒に振ることになる。

鬱の希死念慮って凄まじいらしいね。

 

がんばりすぎなくて、いい。

 

それで評価されなくなっても、仕方がないことだ。

仕事は学生や教員のためにやっているのであって、評価のためではない。

私自身は、他者からの評価のために生きているわけではないのだから。

 

*   *   *

 

生きる意味について考える時間をもった。学生時代にはよく考えたのだが。

 

生きる意味はない。動物に生きる意味がないことと同じように、人間にも生きる意味などないのだ。

生きる意味、などと余計なことを考えるのは、人間が言葉で世界を認識しているからだ。

 

自分の意識とは無関係に、気がついたら生まれていた。そして、自我が芽生えることで自分と外界がわかれて、あらゆる苦楽が押し寄せて来る。それが人生。

 

しかし、生きる意味がなく、ただ単に生まれてやがて死んでいく。そう考えることで、ずいぶん気持ちが楽になる。

なんだ人生ってそれだけのことじゃないか。

ああ、人生は死ぬまでの暇つぶしなのだ。だったら楽しく生きた方がいい。

 

 *   *   *

 

「うむ」は能動、「うまれる」は受動。やっぱり、気がついたら生まれていた、ということなんだなぁ。

 

そんなことを考えていたら、吉野弘さんの詩「I was born」に出会った。

「I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね」