記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

デジタル・デトックスっていうのかな

こんばんは。久々の投稿です。

皆さんお元気ですか?夏バテ、していませんか?

 

今日はデジタル・デトックスのお話です。

 

夕方、机の上に常設していたノートPCをたたんで本棚に収納しました。これで机の上にはBOXティッシュしか載っていません。これが実にスッキリとして気持ちがいい。(いまこの記事を書いているので、一時的に机にPCを置いていますが 笑)

 

平日は仕事から帰ってからとりあえずPCの電源を入れる。休日は朝起きてすぐに電源を入れる。そして、たいていは寝るまで電源が入っている。いつからか当たり前になっていたこの習慣を見直してみようと思ったのです。

 

さらに机の向きを変えました。今までは座ると目の前にドンと壁がくる向きに机を置いていたのですが、座ると窓さらには外の景色が見える向きになるようにしてみました。壁に向かい合うよりも、少し気持ちが明るくなるような気もします。たとえ外の景色が隣のアパートだったとしても 笑

 

コロナが広まって外出を控えていた昨年、私はYouTubeを見る時間が格段に増えました。とくに5月頃から。いわゆる「おうち時間」というやつです。それ以前は時折、好きなクラシック音楽を聴く程度で、自分の生活の中にYouTubeが溶け込んでいる感覚は全くありませんでした。でも、今は違う。ちょっと時間があると動画を探してしまう。そして次から次へと見てしまう。(ちなみに、私はスマホではYouTubeを見ません。PCに比べて画面が小さいので、なんだか見る気がしないのです 笑)

 

そんな私にある気付きをくれたのが今夏の帰省です。

 

実は、実家に帰った時にはYouTubeを見ませんでした。念のために持って帰ったノートPCも、2日に一度メールチェックをする程度でほとんど開かなかった。それよりも1年8か月ぶりに会う家族と他愛ないおしゃべりをしたり、ずっと降っていた雨音に耳を傾けたり、雨間に庭に出て新鮮な空気を吸ったり、あえて何もせずに家の中でぼーっとしたり。ひとりで庭に出て、小鳥のさえずりの中で草木の緑をみているとほんとうに癒されます。そこには、私たちの「生」に対する無言の肯定があるような気がするのです。

 

そうやって帰省中に半ば意識的にいったん電子機器から離れてみると、いかに今までの自分がいろいろな物事に執着していたか、ということが感じられるようになってきました。また、外界からの強い情報が多すぎて、ところどころで神経をつかっていなんだな、ということも徐々にわかってきました。動画(映像)って情報量がすごい。あと、ネットの記事とかの文字情報ね。まさに無尽蔵。ネットサーフィンって言うけれど、自分が情報の波に溺れてもがいていることに今さらながらに気が付きました。

 

あ、そうそう。実家にはテレビがあったのですが、私はほとんど見ませんでした。ニュースもあまり見なかった。悲しくて痛ましい事件ほど報道されやすいのです。私たち人間は、野生の時代から生存のために良い情報よりも悪い情報に敏感だったといいます。だから、ニュースも気持ちが明るく嬉しくなるような報道よりも、ネガティブな報道のほうが多くなる、と。報道の在り方としては、それで仕方がないことなので(そういうネガティブな報道も大事ではある)、私自身は極力見ないようにしています。

 

朝の頭がクリアな時間帯に、ニュースを見て暗い気持ちになったり、憤ったりするのは得策とは言えないと思います。わざわざ負荷をかけているようなものです。また、知っても知らなくても、正直なところ自分の人生には直接関係のない出来事が多いのですから。世間を知らなくてもいいという傲慢さ、というのではなくて、自分の精神衛生を守るために。感情をかき乱されることほど、辛くつまらないことはないのだから。

 

ちょっと脱線しましたが、そんなこんなで今夜から家ではPCをちょっと遠ざけて生活してみようと思います。続くかな?笑 広々とした机でこれからのことをゆったり考える、そんな時間が今は欲しいと思っています。