記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

『塔』2021年2月号から

こんにちは。近所の梅が花開いています。

もうそこまで春が来ているのですね。

 

ゆるやかに何かが漏れてゆくらしき君の言葉を我は繕ふ(尾形 貢)

無防備にからだあづけてくる秋の重みをしんと受けとめてゐる(澄田広枝)

>一読、不思議な魅力に満ちた歌たち。

 

スニーカーに長きスカート似合ふのが若さと言はむ ふはり秋風(北神照美)

>言われてみれば何となくそんな気もするから不思議だ。

 

晩秋のひかりを収斂したようなカリン天啓として輝く(大引幾子)

>カリンってどんな実だっけと思い、写真付き歳時記で探してみた。

 

をとめ子の素直なる髪を思はせて薄は揺れる風の光に(古堅喜代子)

>風に吹かれていろいろな植物が揺れるが、薄の揺れ具合はとてもやさしくて繊細な感じがする。

 

秋薔薇の香はやわらかく闇を抜け夜長を包み更けてゆくなり(北乃まこと)

二日分の洗濯物のすき間から木漏れ陽になる秋のやさしさ(佐原八重)

>秋を満喫するのもいいね。

 

勇敢に孤独であれと励ましの最後の手紙返事を知らず(白井真之)

>前後の歌からリルケの手紙とわかる。おそらく『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』(新潮文庫)であろう。リルケ曰く、「孤独であることはいいことです。というのは、孤独は困難だからです。ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです。」 

 

ハッシュタグ(#)「休日出勤」並ぶ朝、人並みの暮らしを考え直す(渡邊東都)

辞めてゆくこの若者の正しさを受け入れながら引継ぎをする(竹田伊波礼)

働き方改革とは一体何だったのか。そういえば、もう死語なのかもしれないけれど、プレミアムフライデーとかいう言葉も一時期流行りましたね。私には無縁の言葉でしたが・・・。

 

「塔」の本見せてと母の声がしてしばし供える十一月号(北山順子)

>すぐそばに「どんな思い出があれば母のいないこの日々に向き合えるだろうか」(同)の歌もある。「供える」という具体的な行動が寂しさを際立たせる。

 

秋晴には体操服がよく似合ふ赤い鉢巻ひらひらゆれて(阪口和子)

>楽しい歌。太宰の「富士には月見草がよく似合う」も思い浮かぶ。

 

冬の夜の眼精疲労コンビニで買ったサラダのように乾いて(田村穂隆)

>私が眼精疲労という言葉を知ったのは、山手線の車内広告。

 

日本語の底荷とならむ歌を書く上田三四二をいまも敬ひ(西山千鶴子)

上田三四二『短歌一生 ―物に到るこころ―』という本に「底荷」という文章がある。私も以前読んだときに感銘を受けて、その写しを父に渡した覚えがある。

少々突飛な譬えで恐縮だが・・・日本の文化や伝統を語る際に、たとえば法隆寺を守ろうという風なことはしばしば言われるのであるが、日本語を守ろうということはほとんど耳にしないように思う。いわゆる保守派といわれるような人々もあまり言葉には興味がないのではないかと思われる。言葉の問題に触れずして、歴史を語ったところで仕方がないのだが。まあ、建造物は目に見えるから意識が向きやすいのか。あまりこういう言い方は好きではないが、やはり唯物的だな。言葉が我々の思考の礎であることに思いを致せば、日本語を大事にしようという発想に至るのは自然なことだと思うのだが。いま、そういうことを考えている日本人って、どの程度いるのだろうか。少なくとも短歌や俳句といった言葉そのものと付き合っている人は、一度は自分事として考えることになるのだと思う。

 

秋も過ぎつつがなくとは言いがたしどの人もみな生きてと祈る(田中純子)

>ほんとうに、その通りだと思う。 

 

きんつばの粒の感じと言うべきか ツブでもコシでもない健やかさ(長谷川琳)

きんつばは私の好物のひとつ。とりわけ又一庵のきんつばは格別のおいしさだ。砂糖の甘ったるさを感じさせない。月並みな言い方だが、素材を生かした味わいということになるのだろう。

 

  

単から袷にかわり木犀の花は一日の雨に散り敷く(倉成悦子)

>一日は「ひとひ」。 素敵な取り合わせだ。こういう歌が好き。