記憶の汀

~大学図書館司書のとりとめのない日々のこと~

『塔』2021年6月号から①「誰か呼びゐし気配のありて」

みなさまこんにちは。

『塔』6月号、ずいぶん前に読み終えていたのですがようやく記事にできました。

 

望みなど何にもないと思う日に藪蔭に咲く紫すみれ(稲垣保子)

>草花を見ることで希望や勇気をもらうことがある。一生懸命に生きているのは人間だけではない。木下闇に咲くすみれも置かれた場所で己(おの)がいのちを全うしている。

 

打ち寄せる胸の渚に日常が大きくなったり小さくなったり(同上)

>繊細で詩的な捉え方だ。ふだんの生活の中で起きる大小の出来事を思う。それらのうち多くは波のようにいつしか消え去っていく。

 

七草を過ぎればいづれも雑草と抜かれ引かれて捨てられてをり(大島りえ子)

>「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」という歌が『河海抄』(かかいしょう)に載っているそうだ。『河海抄』といえば、高校の日本史で源氏物語の注釈書のひとつとして出ていたのでご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。それほど重要な用語ではなかったと思うが・・・。学生時代にアパートの近くのセブンイレブン七草粥を買ったことがある。かわいい野菜が入ったおかゆ。なんとなく嬉しい気持ちになった。

 

やる事がないのかやる気持てぬのかテレビつけつつ午後を過ごせり(新川克之)

>暇になると人は不幸になる、という一面はたしかにあると思う。たとえば時間を持て余した休日など。ほんとうは何もしない時間こそ、充実したひとときになると思うのだが、なかなかそうはいかない。頭でわかっていても。損な性分なのかもしれない(笑) 遊びの時間(暇な時間)がないと、よい発明や創作は生まれにくい。0から1を作り出すためには、時間の余白が必要だ。

 

その家の人を知らねど早朝の橙色の灯あたたかし(干田智子)

>夜ではなく、早朝というところに詩を感じる。なんというかうまく言えないけれど、印象派の絵画のような。

 

水仙の花を揺らして風通る誰か呼びゐし気配のありて(武田久雄)

>いろいろなかたちの歌がある中で、こういう姿の整った歌が好きだと感じる。歌全体からうまれる透明感に惹かれる。奇抜な意味内容で人目を惹くのではなく、こういうさりげない歌がいい。無駄な言葉がない。高度な技術があるのだと拝察する。

 

紫の土筆のやうな……と思ひつつ名が浮かび来ぬその小さき花(丸山順司)

>たとえ名前がわからなくとも花を愛でることはできるのだ。名前を付けてあげてもいい。名付ける、という営為は、愛情なくしてできないことだと思う。

 

遠くゐて心配してもはじまらぬ551の豚まん送る(安永 明)

>あたたかい歌だ。551の豚まんが好きだ。父が出張のときに買ってきてくれた思い出がある。あつあつでほのかな甘みのある生地がおいしい。明石海峡大橋が描かれたゴーフル(青い缶だった)もなつかしい出張のお土産として記憶に残っている。

 

失つていくものばかり数へてはいけない冬の風の根生葉〔ロゼット〕(山尾春美)

>共感した。たとえば、冬を越すタンポポの根生葉。地表近くの茎から葉を出して、背丈を低くしている。厳しい冬の風雪に耐えるのだ。根生葉は何も失っていない。春になればまた花ひらく。ただ時を待っているだけだ。

 

ほんたうは波に揉まれて波となり透明なものになりたいんだな(同上)

>そういう気分のとき、あるよね。透明なものになりたいなぁって。

 

誰か世界の終わらせ方を知らないか少し飽きてきたんだコロナ(山梨寿子)

>多くの人の気持ちを代弁したような歌。いっそのこと、この世界を終わらせてもいいという、感情の飛躍は文学の世界では許される。

 

温かくなりゆく雨を聞きながらしたしく思ふ部屋の暗がり(加茂直樹)

>暗さというものは、時として私たちに安らぎを与えてくれる。冷たい雨ではないこともポイントなのかもしれない。

 

川べりに菜花だれかが抱きしめた後のごとくにそこだけ群れて(北辻千展)

>目の前の光景をどのように捉えるか。なんでもない風景に、詩を出現させる作者の技を思う。

 

かわいげを求めるヒトは相当にかわいげのない生き物である(かがみゆみ)

>皮肉が効いている。たしかにヒトはかわいげのない生き物なのかもしれない。とくにSNS等で承認欲求をむき出しにする人を見かけるこの時代においては。なお、少々弁解じみたことを書いておくと、このブログは書きたいことを書き散らしてるだけなので、他の人に認められたいとか注目されたいとか、そういう気持ちはない。書きたいから書く、それだけ。