みなさんこんばんは。
俳句と短歌の間を行ったり来たりしている双海です 笑
9月ももう中旬なのですね。
いま、岩波文庫の『立子抄』を再読しています。
この本は、俳人 高浜虚子が次女である立子(たつこ)の主宰する俳句雑誌『玉藻』に寄せた文章を集めたものです。
昭和5年の創刊号から虚子が亡くなるまで実に30年もの間書き続けられました。
本書、学生時代に古本店にて購入、一読して深い感銘を受けた1冊です。
読み終えてから実家に送ってしまったので、以後手元に置いていなかったのですが・・・
先日、出張で早稲田界隈へ赴いたときに、通りの古本屋で購入しました。
200円也。コーヒーを飲むよりも滋養があって安上がり 笑
お店のご主人に「出張でこちらまで来たついでに立ち寄りました。学生時代もこうして古本を買ったことを思い出します」と告げると、「あぁそうでしたか。うれしいですね」と相好を崩されました。
最近は本がめっきり売れなくて同業者もどんどん店を畳んでいます、とも。
早稲田では、飯島書店・五十嵐書店がとくに好きでしたね。どちらのお店も今回お邪魔しました。ご主人、お元気そうでうれしく思います。
若者の読書離れ、ということが時々言われますが、私は大人(社会人)も同じようなものだろうと思います。
若者も社会人も読む人は読んでいる、読んでいない人は読んでいない。それだけだと思います。
これに限らず、いわゆる世代論という代物は疑ってかかるべし。これはちょっとした生活の知恵です。
これだけ娯楽が多様化している現代にあって、読書という-時として精神の緊張を伴う-営為の地位が相対的に低くなっていくことは仕方のないことかもしれません。
また、娯楽ではなく「修養」としての読書という考え方もありますね。
たとえばニーチェを読んでいなかったら「なんだお前、学生のくせにまだ読んでねぇのか!」と 笑 まあこれは戦前の旧制高校などの話で、現代では通用しないのでしょうね。北杜夫や澁澤龍彦など多くの文筆家が書き残していることです。
さて、『立子抄』ですが、これを再読しているときに有島武郎の佳品『小さき者へ』や森鴎外の娘さん(小堀杏奴)が父を偲んで書いた『晩年の父』などを思い出しました。
『立子抄』や『小さき者へ』は、父が子を思うもの。
一方で、『晩年の父』は子が父を思うもの。
文学とは小説だけではない。これは大事なことだと思います。
本書は、『玉藻』の創刊号に虚子が寄せた「『玉藻』を出すについて」という次の文章から始まっています。
「立子、お前に雑誌を出すことを勧めたのは全く突然であった。(中略)お前は父さんの傍で少しの間仕事を手伝っていた。自然俳句というものに親しむ機会がお前の他の兄弟姉妹よりも多かった。従ってお前のその方面の才能を少しばかり知ることが出来た。お前の俳句は筋の正しいものであることがわかった。これは父として偏っていうのではない。(後略)」
毎回1~2ページほどの短い文章ですが、娘を思う虚子という人間のあたたかさが伝わってくるように思います。
読みながら私も虚子に励まされたような気がします。
もうね・・・なんというか胸が熱くなる感じ。親が自分の理解者であるという境遇はほんとうにありがたいことであるし、自分のいちばんの支えになるのだと思います。
最後のよりどころですね。それは、ひ弱な意味ではなくて、そこから力強く前へ前へ独力で進んでいく感じです。
黒猫ワイン:シュヴァルツカッツを飲みながら・・・。ではまた。